佐藤の日常記録

1997年生まれの人生奮闘記

最近知った言葉3

五徳→囲炉裏やガスコンロに用いられる鍋を乗せるための支持具のこと

 

宿坊→神社や寺に併設される参拝者や来訪者を宿泊させる施設のこと

 

バランスシート→賃貸対照表

 

気質物(かたぎもの)→浮世草子の一種。職業・性別・階級などで人物を分類して書いたもの。

 

空手形→実際に取引が行われていないのに資金の融通を受ける目的で発行される手形。

 

一字千金→一字の値が千金にあたるほど立派な文章や文字であること。

 

海千山千→長い年月を生きさまざまな経験を積むことで世を知りずる賢いこと。

 

二天一流→右手に大太刀、左手に小太刀の二刀を用いること。宮本武蔵が関連してる。

 

万万一→万が一をさらに強調。

 

落成式→建物の完成を祝って関係者にお披露目するための式典。

 

笑止千万→非常におかしいこと。とても気の毒なこと。

最近知った言葉2

テンセグリティ構造→テンションとインテグリティが合わさった言葉。圧縮材と張力材によってモノに重力がかかってないかのように見える。人間も骨と筋力によるテンセグリティらしい。

 

猜疑心→相手の言動や行動を疑う気持ちのこと。

下心があるのでは?という時に使う。裏を考えちゃう時。

 

懐疑心→ただ単に疑問に思ったり信じきれない理由がある時に使う。純粋な疑問。

 


矜持

→自分に自信がある様。誇りやプライドがある様。

ex私は自分の仕事に矜持をもっている。


蓋然性

→事柄が起こる確実性。確実性の度合い。確からしさ。客観的な根拠がある場合に使える。必然性の対義語である。


胸算用→事をなす前に頭の中でザッと計算すること。

 


ビバーク(bivouac)→登山やキャンプなどにおいて、緊急的に野営することを指す用語。不時泊とも言う。

 

懊悩→悩み悶えること。

 

不肖→とるにたらないこと。師に似ないで愚かなこと。

 

 

 

主要5教科の自己定義

中学までの主要5教科の僕なりの位置付けが最近できました。みなさんはそれぞれの教科をなぜ学ぶのか考えたことはありますか?さっそく行きたいと思います。

 

国語→言葉を覚えることで、周りのものを描写する方法を増やしたり、自分の考えをストレートに伝えたり婉曲して伝えたりする日本人らしいコミュニケーションをとるために学ぶ。言葉の可能性に気づくのも感性が磨かれて楽しい。

 

数学→論理的思考のトレーニング。これがこうなるから次にこうなる。正しい順序で正しく考えれば正しい結果を導くことができるっていうゲームみたいなもんです。

 

理科社会→身の回りのあらゆる仕組みを身近に感じるために学ぶ。また、それらを知ることで他の事象についても自分で考えてみたり不思議に思えることを増やしたりすることで人生を豊かにする。ザ・教養って感じ。

 

英語→知識をインプットしたりアウトプットしたりするトレーニング。継続で必ず結果が出るものだから達成感を味わうためにも良い。英語を学ぶことで言語によって文化があることに気がついたり、考え方が広がったりすることもありますしね!

 

簡単に書きましたがこんな感じです。学生時代は理科社会に興味をもてませんでした。だから僕自身世に疎いのだなぁと痛感しています。中学理科を学び直して、学生時代に分からなかったものを大人になった今だから分かるということもあるし、分かることで他の現象と今勉強した知識が繋がったりすることもあります。

 

学びたいと思った時が学び時と言います。まだまだ何を勉強するのも遅くないですよ!

最近知った言葉の意味1

虎の子→大切にして離さないもの。虎って自分の子どものことを非常にかわいがるらしいです。

 

過労死ライン→病気や死亡リスクが高まる時間外労働のこと。法律上では「発症前1ヶ月間に100時間以上の時間外労働」、「発症前2〜6ヶ月間に平均で80時間以上の時間外労働」となっている。なんか日本のほとんどの労働者にあてはまりそう...

 

与格(dative)→動詞の間接目的のこと。名詞や代名詞における文法格のこと。日本語の「〜に」のことらしい。現段階では言葉を知っているだけで例文とかは作れないしよく分かっていない。

I gave a book to him.のhimみたいな感じ?

 

フレネミー→フレンドとエネミーを合わせた造語。仲の良い友達のように見せかけて嫌がらせをしたり悪口を言ったりする極悪な存在。味方のフリをした敵みたいなイメージ。

 

シュレーディンガーの猫→オーストリアの物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーが発表したなんか難しい思考実験のこと。結果を実際に見るまでは色んな可能性があり一つには定まっていないよね、みたいなことだと思う。

例えば友達と遊ぶ予定をいれて、家にピンポンがきたらドアの先には友達がいる可能性と、隣人とか配達員がいる可能性がありますよね。顔が見えるシステムがなければドアを開けるまではその先に誰がいるのか分からないという状態になります。こういう状態のことを言うのだと解釈しました。

 

今回は以上です。

教育に関しての学習成果1

教育における時間概念に関する考察

-ある幼稚園の実践事例をたよりに-

藤川大祐(千葉大学教育学部

 

を読みました。面白かったことや勉強になったことや考えさせられたことをまとめます。

 

人の一生よりも緩やかに社会は変化していくと考えられていた時代がちょっと前まであったようです。しかし社会経済状況の変化は加速を続けており、この考えのまま学校教育を構築していくのは既に厳しい状況にあるとのことです。分かってはいましたがこのように綺麗に言語化されるとスッと自分の中に落ちていきますね。変化の激しいこの時代に生きる力を育もう、とか言われるよりもよっぽど分かりやすいですね笑

 

社会の変化にどう対応するかについてデューイが『民主主義と学校』の中で以下のように示しているそうです(言葉はちょっとだけ変えてます)。

社会が「絶え間ない自己更新を通して自己を維持する」こと、そしてこの自己更新は「その集団の成熟した成員が教育を通して成長すること」によって行われる。

つまり社会というものは常にアップデートされていくのだから、その先頭に立ったり、教えていく立場にあったりする人こそが成長する必要があるということでしょうか。教員にも同じことが言えますね。現場はというとそんなことも言ってられないくらい多忙な日々なわけですが。。。

このことについても、なんとなく分かっていたことをバシッと言語化されたような気がしてスッと心の中に落ちていきました。

 

教員が独占的に学習内容を決めるのではなく、集団の中で十分な活動を通すことで生まれた興味や関心を実現する方向で学習内容を決定していくことに可能性がある。

とありました。これって本当にそうだなと思っていて、十分な経験や知識がないと、自分の本当の興味の方向には向かえないと思うんですよ。僕らって様々な知識や豊富な経験があってはじめて自分は本当に何が好きなのか、とか、本当にやりたいことが分かると思うんですよ。それが分かるようになるほどの知識や経験を得ることなく、狭い選択肢の中からなんとなく好きなものを選んで生きてきたと思うんですよね。分からないうちはそうするしかないのですが、そこにどう周囲の大人が関わっていくかって子どもの成長にかなり影響を与えますよね。

これは大学時代に2年間僕の担任をしてくださった星野先生(千葉大)とも話したんですけど、教員の役割って「見えていない生徒にどれだけ選択肢を与えてあげられるか」だと思うんですよね。これを分かってもらえる学生の発達段階は、中学校後半〜大学くらいになってしまうかもしれませんが、本当に僕らって見えていないと思うんです。あらゆることが。高校教師を目指していた僕により英語の力をつけるための時間を星野先生は作ってくれました。予習として英語の論文を読み、どんなことが書かれているのかを訳して発表し、解説をいただく。週一回90分程度、英語教育の研究に関する知識を与えてくれました。そこではSLAに関する様々な知識や専門用語の解説をしてくださりました。コーパスという言葉すら知らなかった僕ですが今ではよく使っています。自分がただ生きているだけでは触れることがなかったかもしれない世界を見させてくれたことにとても感謝しています。現在の僕の1番の興味の対象は英語教育ではなく社会教育学ですが、情報の集め方や、知らない世界を見つけに行く力を教えてくれたのは星野先生だと思っています。

 

小学校の恩師には勉強の楽しさを教えてもらいました

中学校の恩師には教師の素晴らしさを、その先生を見ているだけで感じさせてもらいました

高校の恩師にはどんな人に対しても諦めないで接することが大切だと感じさせられました

大学の恩師には僕の教育の指針になるものを見つける手がかりをいただきました

 

どのステージにも恩師がいる僕は幸せなんだなという結論に至りました。笑

何かを読むことで言語化できていなかったものがハッキリしたり、自分の経験などと結びつけて考えさせられたりすることがありますね。

まとまりませんが今回はこの辺で失礼します!

お読みいただきありがとうございました。

学習指導要領

今日は日本の英語教育の目的について書きます。

 

このブログをご覧になってる皆さんは、学生時代の自分にどんな英語力があればよかったと考えますか。自分の子供にはどんな英語力を身につけて欲しいと考えますか。

 

できるに越したことはない、とか

テストで高得点がとれればいい、とか

日常会話くらいできればいい、とか

仕事で使えるレベルになりたい等

さまざまな考えがあると思います。また、さまざまな考えがあっていいと思います。

 

では国単位で見た時の、小中高で求める英語力とはどうなっているのでしょう。これを考える時、学習指導要領が一つの指標になります。

 

ここに書くのは大変なので割愛しますが、正直に言って、かなり高レベルの指導を学習指導要領では求めています。そして各教科書会社も学習指導要領の内容を満たせるような教科書を作っています。教科書は文部科学省による教科書検定を経て、学校単位で使って良いか良くないかを決めています。

学習指導要領に法的な強制力はありませんが、教科書がそうなっていれば、従わざるを得ません。

 

つまり実質教師が学習指導要領に従わないことは許されていません。そして文科省教育委員会は当然、学習指導要領に従ってくれる人や学習指導要領に理解のある人を採用したいはずです。

 

では学習指導要領の内容を満たすための授業が果たして子どもたちに力をつけさせる授業になるのか、という問題です。

 

僕の答えは、否、です。

 

理由は、2点あります。

 

1つ目はコミュニケーション=英会話と解釈せざるを得ない表記。

2つ目は指導要領の内容のレベルが高度かつ広範すぎること。

です。

 

これまでの指導要領に沿って指導をされてきた人間(私たち世代)を見てもできる人の方が少ないことは明らかでしょう。さらに新学習指導要領では高校を卒業した段階で

 

コミュ英③ 【聞くこと】

支援をほとんど活用しなくても

日常的な話題について

必要な情報を聞き取り、話の展開や話し手の意図を把握することができる。

 

コミュ英③ 【話すこと やり取り】

使用する語句や文、対話の展開などにおいて

支援をほとんど活用しなくてと

日常的な話題について

多様な語句や文を目的や場面、状況などに応じて適切に用いて

情報や考え、気持ちなどを話して詳しく伝え合うやり取りを続け、会話を発展させることができる。

 

というレベルを求めています。さすがに上品な言葉を使っても「アホ」でしょう。

 

難しい内容を指導要領に記し、後は現場に丸投げです。こんな運営方法ありますか?

 

半分以上僕の愚痴のような内容になってしまいましたが

 

文科省⇆教委⇆現場

でどこの間もかなりの認識のズレがあります。

教科指導に限らず、あらゆる面でズレが発生してます。

 

現場の悩みはいつ教委に、文科に伝わるのでしょうか。上から投げられたものを受け取るしかないこのトップダウンの状況に現場は疲弊しています。どこに声をあげたらよいのか。どう変えてくれるのか。

選挙に行かない若者同様、現場は上への信頼がもはや皆無です。

部活動顧問

皆さんの学生時代の部活動は誰が指導していましたか?

多くは教員だったと思います。外部の指導者が来てくれたこともあるかもしれませんが、顧問として存在していたのは教員だったはずです。

 

僕が実際に教師になるまでは、学校の先生が顧問をやることを疑ってなかったんですよ。平日の放課後と休日の練習、試合や大会。どこに行くにも先生がついてくれてましたよね。

でもこれって普通じゃないんですよ。部活の時間の殆どは教員にとっては「定時外」なのが事実です。

ですが、これを普通だと思って育ってきた人って多いんじゃないかなと思います。僕の場合、バスケットボール部にずっと所属していましたが、中学はずっとバスケをしてきた先生、高校でもバスケをしてきた先生だったし、選抜チームの監督などもやっている実力のある先生に教わっていました。嫌々見にくる先生がいなかったのも、僕が、部活動は先生が見るのがあたりまえ、と思って育ってきた理由の一つかもしれません。今思えばそれってかなり幸せなことですし、そんなことを考えずに部活動に熱中してさえいればよかったあの頃の僕は恵まれた環境にいました。

 

ですがこのままで良いのでしょうか。

学校の先生の仕事は増えることはあっても減ることはありません。増え続けるのですから年を追うごとにどんどん教師の生活は苦しくなっていきます。そうなれば、本来の業務ではない部活動に対して不満を抱くのも当然です。教員の仕事は民間とは違って直接の利益を目的としません。ですから不利益にもなかなか注目しません。決まり事が変わることは殆どありません。だから教師の声は中々外に伝わりづらいのです。今年の春に「教師のバトン」というのがTwitterで流行りましたが、それで投稿された内容は惨憺たるものばかりでした。コンプライアンスがかなり厳しい業界ですから、放出できずに抱え込む先生もかなりいます。

 

一体誰がこの現状を救えるのか。

どんな手順を追えばこの環境は変えていけるのか。知るものは現場にはいません。政治同様、どうせ私たちの声なんて通らないと諦めてしまっている人が多いのも事実です。

 

今回は法律や施策の観点からは述べずにばぁーっと書いてみましたが、全て事実です。

これまで無償でやってきてくれた先生方にはもちろん感謝です。ですが同時に、このままではいけないと声をあげてこなかった点には恨む気持ちもあります。

 

どうすべきか分からないまま、疲弊していく現場をどうにかしたいと考え僕は大学院への進学を決意しました。院試対策から始まりますが、必ず一石を投じられるような成果をあげてみせます。