佐藤の日常記録

1997年生まれの人生奮闘記

自分の武器

皆さんには自分の武器と呼べるものがあるでしょうか。

 

僕は自分の武器だと思っていたものが

社会人になってからは相対的に武器とは言えない感覚に駆られています。

 

現代はSNSやテレビ等で

能力の高い人を見つけやすかったり繋がりやすかったりという面があります。

 

最初は楽しく見ていたYouTuberやインスタグラマーも、時間が経ってみると自分を責める材料になってしまいました。この人達は武器と呼べるものが明確で、さらにそれを1番のウリにしなくても活躍ができていました。

 

自分の1番さえ他人の2番に及ばない。

 

悲観的になっても意味がないのですが、実際多くの人に当てはまっていると思います。それでも強く生きている友人や訪れる店の店員など。

彼らがどういうメンタルで生きているのか様々な人に聞いてみたいです。

 

僕って他人が下にいないと生きられないようなこんな小さい人間だったんでしょうか。

そうだとするならばこれを受け入れることから新しい人生が始まるのでしょうか。

人格の完成

人格の完成とはどこでよく聞く言葉でしょうか。

 

答えは

教育基本法第一条

です。

 

教育基本法

第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

 

とされています。

こういう条文見たときに僕がまず思うことは

「一つの条文にいろんな要素盛り込みすぎ」

です。

こんなことを言うと頭の固い勉強ができるタイプの人間から「これくらいの内容も理解できないのか」と言われそうですが、多くの人に目を通して理解して欲しかったらもっと簡潔にするべきだと思うんです。一つ一つなら難しくないのにまとめて提示することで理解を困難にする。

 

僕らのように教育に関して学習した人ならいいですが、そうでない人はたくさんいますよね。どれだけ多くの人に誤解なく簡潔に伝えられるか。そこに焦点を当てたら、すべきことは明白です。

 

形を大切にしすぎるあまり、理解できない人を置いていく、そんな教育が僕は大嫌いです。

(つまり特別支援教育の観点は神)

 

そもそも人格の完成ってなんやねんって感じじゃないですか。

 

平和的で国家や社会の形成者の一員となるために

真理と正義を大切にする

個人の価値を尊重する

勤労と責任を大切にする

自主的精神に満ちて心身ともに健康になる

 

これができたら人格の完成なのでしょうか

どうして完成した姿がもう決まっているのでしょうか

人は皆違うのに。

 

個性を大切にするはずなのにむしろ均している

 

そんな公教育に僕は辟易しています。

 

少し誇張した解釈でしたが、まあ色々と納得いかない点がある、ということです。

みなさんは人格の完成をどのように捉えますか?

 

 

 

 

ブログ新規開設の翁ありけり。

佐藤雅哉といいます。

 

高等学校英語教諭を目指しています。

前職は公立中学校英語教諭でしたが、体調を崩して休職→退職。

自身の英語力の低さや勤務体制への納得のいかなさから退職を決意したので、教員自体への熱が冷めた訳ではありません。

ここまでが簡単な自己紹介です。

 

 

以下、ブログを始めた経緯です。

YouTubeに動画投稿をしながら、自身の日常の記録を残していきたいと考えていましたが

 

1.文字にするのが得意

2.ブログは場所を選ばない

 

という点で

僕が情報発信をするならば、ブログの方が向いているのではないかという結論になりました。

元々、発信行為自体は学生の頃から好きだったのでやっと始めたという感じです。

Twitterもツールとしては同じ役割を持っていますが字数制限があるし、手軽なのでいらぬ情報を発信受信してしまいますよね。その点ブログであればまとまった内容の発信に注力できます。

 

自己満雑記ブログになる故、興味がない情報などもあるかと思いますが何卒よろしくお願いします。

 

2021.7.4(日)